しんかいからくらげ

独自の視点から日々学んだことをブログにしてます

感じ方違い

あるときには、最悪だと落ち込み、ある時は、最高だと思う。

ある人は、いい人だと思い、ある人は、気持ち悪い人だと思う。

でも、それって自分基準であり、自分でどうにもできる。

ある人を、運命だと思うこともあるかもしれない。

それはなんでその人だと思たのと言われてもわからない。

感じ方はひとそれぞれで、その人にしかわからない。

私は私を守るくそ野郎

私で自分を守るために嘘をつく

その場の空気に圧倒され嘘をつく

なぜうそをつくのだろうか?

その場で怒られないようにするためだ。

でも、それがばれて後々その倍で怒られる。失望される。

私は私を守る私が嫌いだ。

しかし、そのもう一人のあたしは今日も私になる。

関わらうとすることで差が出てくる

誰しも、おかしいと思う人とと出会ったことは必ずしもある

そのとき、冷やかしたり、なにって態度に出したことはあると思う

自分だってある。しかも小さい時には、行動にも示していた。

でも、初対面ではもうしょうがないとするしかない。

逆に、いやそんなことないといえる人はほんのわずかだと思う。

だからこそ、その初対面のあとの対応のしかたでかわってくる。

その人を深くまで知り、かかわってみる。

話してみる、知ろうとしてみる。

そこが、その人のすくいであり、自分自身への救いだとおもう。

いいひとわるいひと

みなが言う「いいひと」ってなんだろう。

電車で席を譲る人?重い荷物をもってあげるひと?

「いいひと」ってなんだろう。

私は思う。自分の都合のいいひとを「いいひと」という。

逆に悪い人は?あなたの想像にお任せしよう。

じゃあ、大勢のひとから「いいひと」と言われる人ってなにしてんだろう?

なにを基準に「いいひと」になっているのだろう。

やはり、神か、神なのか。

お手本とするものがなければ人はどのように「いいわるい」を判断するのだろうか

 

代替なんて存在しない

私のあなたの代替なんて存在しない。

だれもがなにか憧れ、それになろうとする。

しかし、それになることは難しい。

それというものは、過去の過程があり今がある。

その過程をまるっきり同じにすることはできない。

たとえ、同じ過程を歩んだとしても、そこ対する感情が違う。

そう考えると、いまある姿というものは、過去にならいある。

誰もが、自分自身のことは自分自身しかわからない。

外側からみえるもの、内側からみえるものはちがう。

だれもがひとりであり、ひとつである、唯一の存在。

シュレディンガーの猫

1935年にオーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが発表した物理学的実在の量子力学的記述が不完全であると説明するために用いた思考実験シュレーディンガーは、EPR論文を補足する論文の中で、観測されない限り重ね合わせであるとして記述すると巨視系の状態が状態見分けの原理(巨視的な観測をすれば区別できる巨視系の諸状態は観測の有無にかかわらず区別できるとする原理)を満たさないことを示す具体例としてこの思考実験を用いた 

 

 

 

 今まで触れてこなかった量子学の知識。しらない想像しにくい世界がそこにあった